Essay: アクションをめぐるアーカイブ (Shuhei Hosoya)
Art and media researcher, Shuhei Hosoya, writes on the challenges and roles the art archive, particularly those in regards to Zero Jigen (Zero Dimension) group and similarly anti-establishment, avant-garde collectives face.
essay: Shuhei Hosoya / 細谷修平
アクションをめぐるアーカイブ——〈ゼロ次元〉のメディア戦略と増幅するイメージ
1960年代、日本国内では既存の枠組みやジャンルを超えていく前衛藝術の運動がさまざまに展開された。美術においては、美術館や画廊を飛び出し、街頭での表現行為つまりはパフォーマンスがさかんに行われている。近年、当時の資料や記録写真、記録映像を活用することで、こうした表現活動が国内外の展覧会で紹介されることも増えてきているが、社会的背景やその政治性を踏まえた全体像へ具体的に迫るという意味ではまだまだ不十分である。中でも、反藝術的反社会的なアクションを長期間膨大な回数で展開した〈ゼロ次元〉の活動の再検討、再評価はこれからといっていいだろう。
本稿では、そうした再評価へ向かうために筆者が取り組んでいる「ゼロ次元・加藤好弘アーカイブ(以下、ゼロ次元アーカイブ)」について、〈ゼロ次元〉が行なったメディア戦略の特異性を軸に紹介するとともに、このアーカイブ・プロジェクトにおける問題意識や課題を提示し、アクションをめぐるアーカイブの可能性/不可能性について検討していく。これらによって、アート・アーカイブをめぐる今日的な課題あるいは展望も提起できればと思う。
〈ゼロ次元〉の思想的背景
〈ゼロ次元〉については、先行する黒ダライ児の膨大な調査と研究によって、ともに儀式と称した「反芸術パフォーマンス」[1] を展開したグループを含め、その活動が明らかにされている。ここでは活動の前史として、中心メンバーであった加藤好弘と岩田信市の思想的背景をたどることで、活動の根幹にあった彼らの信念を改めて捉えておきたい。
加藤好弘は1936年生まれ。戦時中は一時期を満洲で過ごし、名古屋へと戻りすぐに疎開に出る。敗戦後、疎開先から戻り、焼け野原となった名古屋の市街を歩きその光景を目の当たりにしたことから、反米感情を抱くようになった。幼少期には画家の北川民次が営む児童絵画学校に通い、絵を描くことを続けていく。高校に入学したところで、大須事件がおこり、その前後で加藤は六全協[3]以前の政治的前衛に接近していく。大須事件は1952年、名古屋市大須において無届デモを敢行したデモ隊が警察部隊と衝突した敗戦後の先鋭的な街頭闘争である。
加藤:俺の場合は、芸術をやるということはマルキスト(マルクス主義者)になることだった。左翼のマルクスを勉強しないような奴はアーティストでも何でもなかった。左翼になるかその思想にかぶれるかが、アートをやって闘うということだった。アートは闘いだったんだと。そこであのメキシコの先生(北川民次)のことを思い出すの。人間として潰されないために、生きるために絵を描くのであって、綺麗だとか上手だとか関係ないと叩き込まれたからね。ヌードを描くことにワクワクしていた俺が、やばいところにもっていかれて変わっちゃった。そして高校時代は左翼に入った。俺は昼間に行くんだけど、(学校の)机の下に連絡事項を書いて貼っておくと、夜間の奴がそれを読む。主流の奴らは皆、夜間だった。[4]
左翼活動を経験した後、上京して多摩美術大学に入学した加藤は、美術史家の田中一松の薫陶を受けることとなる。ここで加藤は上から教え込まれるアカデミックな教育ではなく、歴史や哲学を自学によって獲得し、自らが時代を切り開いていくという身ぶりを発見していく。本を読むという他者との対話によって、東西のさまざまな思想や哲学を咀嚼して自身の身体に取り入れ、それをアジテーションを含めた表現において展開する加藤のスタイルは、晩年まで続けられていく。満洲でのアジア体験を出発として、戦後の焼け野原から立ち上がり、戦闘的な左翼思想と自身の力で時代をつくるという革新的な意志によって、加藤の思想は形成されていった。
岩田信市は1935年生まれ。敗戦後に疎開先から名古屋に戻り、幼少期は『世界美術全集』を手にして美術の世界に触れていく。加藤と同じ中学校に進学すると、武装共産党の活動に参加し、紙芝居を携えて労働現場を回ったり、運動のビラをつくったりして過ごした。その後、岩田は大須事件に遭遇するも、左翼活動の筋の通らないやり方に違和感を覚え、美術表現のほうへと向かっていく。
岩田:ぶつかって警官が発砲したんだよな。それがこっちへの挑発なのか弾圧なのか、裁判でもめていた。僕は棍棒をつくって突っ込むつもりだった。挑発されなくてもね。このすぐそばに警察署があったんだけど、そこをめがけて占拠するつもりだったんだよね。僕はやるつもりだったけど、あとになったら「やられた、やられた」と言うから、そこで共産党を疑い出したんだよな。自分の意志でやるつもりだったのに、あとになって警察が挑発してきたからだと言う。それは嘘なんだよね。[5]
岩田もまた政治的前衛へと接近したのだが、その正義感から筋の通らないやり方を嫌って離れていき、武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)に進学した。その後は、神社・仏閣の修復師のもとで絵筆を実践で学び、岩田もまた自学によって表現の技術を獲得していった。
二人は、自分の決めた道を揺るぎなく進む強固な意志と、筋の通らないことには徹底して反抗する正義感を青年期の実践で養い、他者とのぶつかり合いと自学によって自身のスタイルを発見し、その思想を形成していった。後に〈ゼロ次元〉が、高度経済成長によって近代的な都市生活へと変わりゆく社会の中で、路上を這いつくばり、ドロドロとした本来の人間の姿を体現してみせようとしたこと、そして、「進歩と調和」を掲げた大阪万博の欺瞞に裸の肉体をもって対抗したことに、この二人の信念がつながっているのは確かだろう[fig. 1]。また、彼らが大須事件とその周辺の状況にいたことで、街頭における直接行動の主体性、現場的感性や肉体による表現の感覚を獲得したことは、後の前衛藝術における活動に接続されるものであろう。
儀式とメディア戦略
1964年、〈ゼロ次元〉は東京へと進出する。東京では加藤が主体的に動き、儀式を行う際は名古屋にいた岩田もたびたび参加した。〈ゼロ次元〉は活動当初から一回性の肉体表現である儀式を写真や映像で記録している。グループのメンバーが記録をするほか、この頃から前衛藝術家を被写体として撮影していた写真家の平田実や羽永光利に声をかけ、ビジュアルとして残すことに努めた。そしてそれらを雑誌にグラビア記事で掲載することで、活動をアピールしていった。
確認できる最も早い掲載記事は、1965年3月に刊行された『推理ストーリー』(双葉社)で、「俺たちの次元 都会人のど肝を抜いた奇行集団」という見出しで、平田による写真と文章から構成されている[fig. 2]。内容は、1964年の「全裸尻蔵界儀式」(鹿嶋神社)、同年11月の「エロス博物館(加藤好弘個展)」(内科画廊)、12月の「銀座パンティ行進」を取材したもので、名古屋から東京へと出てきた〈ゼロ次元〉の活動を追いかけ、電気会社を経営する加藤の姿までをも捉えており、平田のジャーナリストとしての仕事ぶりも窺うことができる。1966年2月刊行の『ニュース特報』(双葉社)では、「台風の目の男たち 0次元に総尻起せよ!」と題した記事が掲載され、平田が撮影した1966年12月の「ミューズ週間」(MAC・J)の写真と加藤によるテキスト、美術評論家のヨシダ・ヨシエによるテキストで構成されており、その協働関係を窺うことができる[fig. 3]。
このように〈ゼロ次元〉の活動は、美術専門誌ではなく、大衆雑誌に数多く表れている。また、こうしたメディアによる表現への志向は、加藤が意識的に展開した。
多摩美時代に石版画の制作に熱中した加藤は、ヴァルター・ベンヤミンの影響もあり、早くから複製技術における表象に目を向けていく。また、同時代のポップ・アート、特に大衆的なモチーフのシルクスクリーン作品を制作したアンディ・ウォーホルの仕事にも感化されていた。その時、その現場に立ち会った者しか体験することができないのは一回性のパフォーマンスの宿命であるが、加藤はその一回性にこだわることなく、むしろそれを複製することで一回性のパフォーマンスを増幅させ、ばら撒き、複製として姿を現すことに注視した。「美術鑑賞」の対象として崇められる「作品」をつくるのではなく、誰しもが触れることのできる大衆雑誌に「藝術」という「爆弾」をセットしていった。出版部数も少なく、限られた層しか読むことのなかった美術専門誌ではなく、より部数の多い大衆雑誌こそをターゲットにすることで、既成の美術制度の枠を越え、一般大衆にまでその活動を表していったのである。毎月の話題性を重視する大衆雑誌においても、写真付きで掲載が可能であった〈ゼロ次元〉の記事は重宝されたのではないかと推測される。こうした加藤のメディア戦略=表現活動によって、〈ゼロ次元〉は意図的に、話題性豊かに登場することで、システムやジャンルを越境し、日本におけるカウンター・カルチャーの動向において重要なグループとなっていった。
自律メディアの展開
加藤のメディアへの志向は、既存の大衆メディアを占拠することに止まらず、自らもメディアを立ち上げることに向かう。自主流通出版物(ミニコミ)として、1967年3月に発行された『黒赤金玉袋 その一』は、加藤による文章、版画、儀式の写真グラビア、コラージュ写真のほか、ダダカンこと糸井貫二の文章、糸井による男根型切抜き、岩田信市が制作した「ランニングマン」のシルクスクリーン画、〈クロハタ〉の松江カクによる歌舞伎絵などが収められた宝袋のような冊子である[fig. 4]。
「黒赤」がアナキズム・ボルシェビキを指しているかは不明であるが、前述した加藤の戦闘的な思想やアナキズムを意図した〈クロハタ〉が参加していることから、そうした意味を含ませた可能性も考えられる。また、〈クロハタ〉は同年12月、エスペランティストの由比忠之進が、アメリカによる北ベトナムへの爆撃を支持した日本政府に対し焼身抗議を行ったのを受け、〈ゼロ次元〉、〈告陰〉、糸井貫二、牧朗らとともに、「故由比忠之進追悼国民儀」を敢行した[fig. 5]。卓越した火の使い手であった松江カク[6]により新宿西口に炎が上がっており、同時期の政治的背景や彼らの政治的意思もここでは考慮する必要がある。
さて、この冊子について現存で確認できるのは「その一」のみだが、文章に目を通すと年間4回の発行を予定していたようである。また、掲載の募集をしており、資格「無名の狂人にかぎる事」、形式「アンデパンダン形式、文学、哲学、宗教、版画、写真、漫画、切り絵その他(全て各自持込出品の事)」とあり、続いて「枚数点数制限なし、但し一作品につき二百部数提出の事。文章は騰写、活版、リコピー、紙質自由。版画はモノタイプ、モンタージュ切り絵も可。」と具体的に指定が記載されている。これを読む限りでも、加藤がこのメディアを継続しようとしたことや、まだ見ぬ各地の仲間に呼びかけていたことが窺える。
〈ゼロ次元〉は大掛かりな儀式の際には、加藤の独特な絵によるビラをさまざまな方面に郵送したほか、シルクスクリーンによるポスターも制作している。中でも〈万博破壊共闘派〉結成直前、1968年に行われた儀式屋たち最後の合同発表である「狂気見本市大会 年忘れアングラまつり」(イイノホール)の大判ポスターは、松江カクによる勘亭流の文字と数色のバリエーションで刷られており、それ自体がビジュアル・アートとして目を惹くものとなっている[fig. 6, 7]。
記録写真の発表というかたちだけでなく、こうした紙媒体による自律したメディアも儀式を演出するとともに、〈ゼロ次元〉の活動の一角として重要な表現であったといえる。また、ミニコミは一般大衆誌とは異なり、仙台の糸井や名古屋の岩田はもちろん、各地の表現者をつないでいくコミュニケーション・メディアとしても機能しており、岩田は「アングラ通信」、〈告陰〉は「告陰通信」と「こえぶくろ」という通信を発行し、独自の回路をつくっていった。
映画作家との共闘
紙メディアでの露出と並んで〈ゼロ次元〉の表現活動の場として重要なのが、さまざまな映画作品への出演である。もっとも早いのは、前衛的な記録映画を制作していた長野千秋による『ある若者たち・愛のバイブレーション』(1964年)への出演で、篠原有司男や小野洋子らとともに登場し、路上での儀式が記録されているほか、加藤自身が儀式について話している貴重な作品である。60年代後半になると、前衛的な表現を展開していたアンダーグラウンド・フィルムの作家たちの作品に立て続けに出演していく。列挙すると、宮井陸郎『時代精神の現象学』(1967年)、岡部道男『クレイジー・ラブ』(1968年)、ドナルド・リチー『シベール』(1968年)、金井勝『無人列島』(1969年)、松本俊夫『薔薇の葬列』(1969年)である[fig. 8]。これらの作品では、映画作家の指示通りに儀式を行うのではなく、同じ前衛の時空間における協働作業というかたちで、感性を交わし合いながら映画作品がつくられていった。特に『時代精神の現象学』は、宮井と現場感覚を共有しながら、極めてゲリラ的に撮影され、時代精神をフィルムに定着させた稀有な作品といっていいだろう。また、アンダーグラウンド・フィルムとはおもむきが異なるが、都会の性風俗のあり様に迫った中島貞夫『にっぽん’69 セックス猟奇地帯』(1969年)にも出演し、路上での儀式のほか、東映撮影所に組まれたセット中でチンドン屋との大掛かりな儀式の撮影が行われている。
日本におけるアンダーグラウンド・フィルムは、アメリカからもたらされ、独自の展開がなされていった。中でも、映画評論家で写真家の金坂健二と、映画作家のおおえまさのりのアメリカからの帰国は、映画の実験性と映像言語における政治思想に多大な影響を及ぼし、加藤も彼らのもたらした感性や思想に感化され、共闘していくこととなる。また、このころ日本語に翻訳された、マーシャル・マクルーハンのメディア論も加藤に影響を与えた。
加藤:「メディアはメッセージである」で一番感動したのは、アメリカ人でカシアス・クレイ(のちのモハメド・アリ)がベトナム戦争反対のときに、アラブの指導者みたいな恰好をして来た。それでインタビューを受ける。ベトナムの徴兵を拒否したすぐあと、テレビを見ていたら「僕はもう牧師だから戦争なんてやれない」と。その断り方がかっこいいんだね。彼はアメリカ人には、ボクサーでとろいと思われているんだよね。つまりポピュラーな奴でアーティストでも思想家でもないのにいかにも戦争反対をやるから、「ところでクレイさん、ベトナムってどこにあるか、わかりますか」と訊かれた。
黒ダ:すごく失礼な質問ですね。
加藤:ものすごく失礼なんだ。「お前は知ってるか」と言わんばかりに。そしたら彼の言い方がすごかった。その頃、俺はマクルーハンに惚れ込んで、日本語に訳されたものをほとんど暗記するくらい読んでいたんだけど、彼がインタビューしてる部屋のテレビでベトナム戦争のちょうど報道をやっていた。彼は「ここだよ」と言ったの。「ここでやってるんだ。お前たち、見えないのか」って。ものすごい衝撃を受けたね。これは素晴らしい。[7]
実際の放送がどのようなものだったか確認は取れないが、こうした加藤の発言からもメディアへの志向が極めて強かったことが窺える。右翼でもなければ左翼でもない、そうした極端に凝り固まってしまったものを異化することで、前衛藝術の表現を展開していた〈ゼロ次元〉は、映像感覚を手に入れることで、シュルレアリスムからアンダーグラウンドへと向かう、「感性の革命」という新たなステージに入っていった。
1970年の大阪万博は、こうしたアンダーグラウンドの革命精神に、当時の先端技術や表現スタイルを収奪した国家・資本による管理システムが立ち塞がった。肉体と精神を束縛するような筋の通らないものには徹底して反抗する〈ゼロ次元〉は、儀式屋としてともに活動していた〈告陰〉やビタミンアートの小山哲男、そして金坂健二らとともに〈万博破壊共闘派〉を結成。裸の肉体をもって反旗を翻し、1969年、「万博粉砕ブラック・フェスティバル」(池袋アートシアター)を敢行[fig. 9]。翌日より、「万博粉砕号」に乗ってキャラバンに出発した[fig. 10]。そして、加藤がこの時期に書いた「万博破壊活動第一宣言」[fig. 11]は美術雑誌でもなければ政治思想誌でもなく、同じく共闘していた映画評論家の佐藤重臣が編集長を務めた『映画評論』に、第四宣言まで連載されたのだった[8]。
〈万博破壊共闘派〉の活動が収束すると、加藤は自身が監督となり、撮影におおえまさのりを迎えて、『いなばの白うさぎ』(1970年)を制作。続けて『バラモン』(1971-76年)[fig. 12]を発表した。人間が本来もつエロスの悦びや、封建的な社会を脱する新しい「ファミリー」のあり様といった新たな時代のビジョンを提示して、その活動を映画作品として結実させたのである。
ゼロ次元アーカイブの問題意識
ここまで述べてきたように、〈ゼロ次元〉はその表現を意識的にメディアによって発表している。一回性のパフォーマンスにこだわらず、それが写真や映像というメディアによって、記録され複製され発表されるまでが彼らのパフォーマンス活動であり、表現であった。記録が現場の事実とは異なることものであることを引き受けたうえで、その現場でしか体験できないパフォーマンスをメディアによって増幅させ、表していったのである。
さて、一般的なアーカイブの観点からすれば、パフォーマンスの写真が掲載された大衆誌は、当時の藝術家の活動の様子を知るための「資料」にしかすぎない。しかし、少なくともゼロ次元アーカイブの場合、残された大衆誌は彼らのパフォーマンス活動の一部であり、極めて重要な「メディア表現」として捉えていかなければならない。そうでなければ、〈ゼロ次元〉の活動を見誤ることになってしまうのだ。当時は大量生産され読み捨てられた大衆誌を、加藤自身がわざわざ晩年まで数多く保管していたことも重要な事実である。
現在、筆者は、〈ゼロ次元〉に並走し、〈万博破壊共闘派〉の活動も写真によって捉えた平田実の活動をアーカイブする、HM Archiveのプロジェクトも進めているが、資料分析などを通して平田の活動を追っていくと、平田にとっても大衆雑誌は重要な発表の場であったことがわかる。サロン的な写真の世界から距離をおいていた平田にとって、美術館や画廊から飛び出し、自ら表現の場を立ち上げていった前衛藝術家たちの姿は魅了されるものであり、被写体として写真に収めるべき存在であった。そして、彼らの活動をより多くの一般の人びとに知ってもらいたいと思った平田は、大衆誌に自身の文章とともに写真を掲載し、その活動を紹介していく。こうして、写真家としての平田の意志と、加藤のメディアへの志向が重なることによって、〈ゼロ次元〉はより多くの紙面に姿を現すことが可能となったのである。そして残された大衆誌は、平田実の写真発表と〈ゼロ次元〉の表現活動という、二重の意味において重要な表現媒体となっている。
前述した通り、同時代の映像表現から思想的影響を受け、加藤自身が制作した『いなばの白うさぎ』と『バラモン』は、それまでの〈ゼロ次元〉の活動の総決算であり、加藤による新たな共同体のビジョンが提示された映像作品である。一方で、両作品は映画によってパフォーマンスを開陳し、〈ゼロ次元〉を表象するための装置であったことも触れておかなければならない。〈万博破壊共闘派〉の活動によって、加藤を含む数名が公然わいせつ罪によって逮捕された後は、公権力による監視のもと、屋外における裸体でのパフォーマンスは極めて慎重にならざるをえなかった。また、そもそも屋内での裸体での儀式[9]の写真が、証拠物件として提示され、逮捕に至ったこともあり、屋内外を問わず、裸になることが表現者にとって危険となったことから、映画は〈ゼロ次元〉の表象にとって重要な装置となった。加藤は晩年まで『いなばの白うさぎ』の上映と自身のアジテーションをセットにして発表を続けているが、『いなばの白うさぎ』と『バラモン』は時代状況に即してたびたび編集され、上映される場所や観客層をみてアジテーションは行われた。それは、加藤が映画の絵解き者となり、〈ゼロ次元〉や60年代アンダーグラウンドの世界に観客を引き込ませるとともに、現代における「感性の革命」に観客を目覚めさせようとした表現活動だったと言っていいだろう。加藤は上映があるごとにその記録を写真や映像で残した。こうして、行為としての上映であった〈ゼロ次元〉の映画上映は、記録されることで〈ゼロ次元〉の表現の一つに加わっていくのである。メディアを介することで、〈ゼロ次元〉の増幅は最後まで止まることはなかったのである。また、映像表現から獲得したモンタージュを駆使して、加藤は絵画制作を晩年まで続けていった[fig. 13]。
ゼロ次元アーカイブは、加藤が他界するまで続けたメディアへの志向とイメージの増幅を認識したうえで、「作品」や「資料」と一般には呼ばれる「メディア表現」を残していかなければならないのである。
前衛藝術あるいは藝術表現の拡張を捉えるために
1960-70年代を通して、表現のジャンルを横断し活発に活動しながらも、オブジェや絵画などの作品を残すことのなかった前衛藝術の活動は、〈ゼロ次元〉だけでないのはもちろんである。作品が残っているから展覧会がしやすく、そうした特定の作家やグループだけが再評価され後世に名を残すというのは、歴史の一面でしかない。本稿で述べてきたように、表現活動のスタイルが異なるだけで見落とされてしまうようなグループや作家の軌跡を追い、再評価の土壌をつくるのが研究者の仕事の一つである。そのためには、こうした藝術表現の拡張の動向を追い、地図を描き、さらに描き変えを続けていく必要があるが、美術や音楽、映画、演劇、舞踏、漫画といった専門領域の研究だけではその作業は困難と思われる。研究対象が領域を横断しているのであれば、研究もまた領域を横断していかなければならないだろう。もちろん、専門領域だからこそ調査・分析が可能であり研究が前進するということもあるが、この時代においては、互いの専門性を共有することでこそ成果が得ることのできる共同研究を展開していく必要があり、それによってこれまで見落とされてきた作家の活動やその背景、人的交流などを捉えていくことが可能であろう。また、本稿でも触れたように、思想的背景を探るためには、当時の社会、政治的背景を考慮する必要があり、そうした調査においては、社会学や社会運動論の研究方法や観点が必要となることも考えられる。実際に〈ゼロ次元〉は、藝術表現を横断した活動に止まらず、カウンター・カルチャー運動における一つの集合点である「人間と大地のまつり」(1971年)や、学生運動によってバリケード封鎖された大学構内、成田闘争の最中に開催された「日本幻野祭 三里塚で祭れ」(1971年)といった現場で、討論や儀式を行なっている。また、平田実は儀式屋を追うだけでなく、当時、重大な政治局面にあった沖縄へとたびたび足を運び、闘争の現場や「返還」の迫る沖縄の姿を同時代的に捉えている。
こうした認識を持ったうえで、資料の取り扱いや分析においては、美術雑誌などの専門誌に止まらず、大衆雑誌や自主流通出版物(ミニコミ)、当事者によるスクラップブック、チラシなどの紙類、大学新聞などにも目を通していくことで、作家の活動や関係者の発言を発見することができるかもしれない。また、紙面の他の記事にも目を通すことで、同時代の社会的背景とその関連性などを窺うことも可能だろう。当事者が亡くなった後、こうした資料は捨てられてしまうこともしばしばあるが、どのような資料や書籍を当事者が集めていたかをデータとして留めておくだけでも、当事者の姿を追うための貴重な情報になるかもしれない。
しかし現在、このようなサルベージ活動は、国内では研究者や関係者により手弁当で行われているのがしばしばである。また、一定のサルベージができたとしても、そこで発見されたものをどこでどう保存していくかなど、課題が多いのが現状である。国内では、アーカイブを専門で行うような大型の国立機関は見受けられず、今後もそのような機関が発足されることは考えにくいだろう。そのため国内では、研究機関や美術館、そしてさまざまなアーカイブ・プロジェクトが水面下で連携し、ネットワークを広げていくことで、資料をすくい上げ、保存に向かうことが筆者の経験からしても現実的と考えられる。そこでは東京文化財研究所や公立の美術館、図書館、大学研究機関、さらに国立映画アーカイブなどが挙げられるだろう。筆者が現在行なっているサルベージ活動からしても、カタロギングの方法や資料の扱い、整理方法などを共有することが現実的に助けとなった。また、こうしたやりとりや協議会の継続を通じて、それぞれの立場から何が問題とされ、何を共有、協働していけるかが互いにわかるようになり、ネットワークが強固となることで、より良い研究成果や発見を得ることができるとも考えられる。美術と映画だけでも保存や公開をめぐる認識はかなりの異なりがあるのが実際のところであり、相容れなさを踏まえた相互理解を進めることは、対象となる作家や作品、資料の保存にとって何より重要である。公的施設へ入れるまでの一定のカタロギングや整理・分析などの具体的な作業進行を明確化し、施設へ入った後も継続した共同研究を進めることが求められるところである。また、コラボラティブ・カタロギング・ジャパンはもちろん、海外のインスティチュートとの国際共同は、グローバル・ヒストリーの観点からしても今後ますます展開が必要となる。さらに、当事者や関係者の口述歴史に取り組んでいる日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴとの連携も研究を具体的に深めることになるだろう。今後も地道な作業が必要となるだろうが、それぞれの立場から協働していければと思う。
その特異性から、どの表現ジャンルや政治運動などからも抜け落ちてしまいがちな〈ゼロ次元〉やともにあった儀式屋たちの活動を丁寧にすくい上げ、再評価していくためには、資料や作品のサルベージや保存のほかに、それらをどのように公開し、分析していくかという課題がある。公開においては、国内外での展示や上映という形態がもちろんあるが、ここでは単なる陳列ではなく、展示や上映のキュレーションの展開によってこそ見えてくる、資料や作品の持つ表象性を実践的に捉えていかなければならない。
〈ゼロ次元〉の場合、そのイメージの増幅が作家の意図しているところでもあり、これを汲み取ったうえで、映像や写真、ポスターなどのメディアの特異性を意識し、ビジュアル・アートとしてキュレーションを展開することで、〈ゼロ次元〉は多様な姿を見せ、新たな前衛藝術への切り口が見出される可能性がある。また、その都度、シンポジウムなど議論の場を開き、公開とその作業過程から見えてくる可能性を探り、再評価へとつなげていく必要がある。
作家や作品によっては、ホワイトキューブやシアターに定めてしまうことで制度的物理的な限界が出てくることも考えられるが、作家や作品をめぐって、どのような場を設えることができるか、また作品が場をひらく力を捉えることができるかが重要となるだろう。資料においては、デジタルアーカイブを構築することにより、複数の資料のリンクによって、一つの資料では見えてこなかった人的交流や時代の全体像を捉えることができる可能性もある。しかし、それでも当時のラディカルなアクションを展示や上映といった決まった形態でしか見せることができないという不可能性も認めなければならない。こうしたラディカルなアクションが投げかけてくるものを的確に認識し、打ち返していくことができるかが研究に問われている。
冒頭でも述べたように、近年、1960-70年代をめぐる国内外の展覧会が増え、国内では地方の前衛表現を顧みる試みも各地で行われており、作品中心の再評価や一枚岩だった東京中心主義的な歴史観も、少しずつではあれ揺さぶられてきている。また、社会、政治的背景を考慮した展覧会や研究も取り組まれ始めている。しかし一方で、既存の美術史観や学術的研究方法から脱することはなかなかできておらず、「東京」か「地方」、「政治」か「藝術」、といったような二極化した観点に止まってしまう傾向がある。「東京」か「地方」かという意識は当時からあったのは確かであるが、ミニコミや書簡を通した作家や関係者の人的交流やコミュニケーションは続けられており、地方の特異性とともに、そのネットワークのあり様にも目を向けていかなければならない。「政治」と「藝術」については、いかに当時の表現活動が政治的であったかといったような視点での研究を目にすることがあるが、結局はそれも二極化した観点の域を出るものではない。また、そうした視座では「直接行動」も硬直した政治概念としてしか捉えることはできない。60年代に巻き起こった藝術表現の拡張による「感性の革命」は、そうした二極化を超えていく運動であり、直接行動はその集団的主体性において権力に向かって放たれたアクションであることを絶えず確認していかなければならないのである。
[1] 黒ダライ児『肉体のアナーキズム』(grambooks、2010年)などを参照されたい。
[2] 六全協は1955年7月に開かれた日本共産党第6回全国協議会の略称。日本共産党が、それまでの極左軍事冒険主義を転換し、今日の先進国型平和革命路線へと向かった。
[3] 加藤好弘オーラル・ヒストリー、細谷修平と黒ダライ児、黒川典是によるインタビュー、2015年8月21日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ(URL: www.oralarthistory.org)。
[4] 岩田信市オーラル・ヒストリー、細谷修平と黒ダライ児、黒川典是によるインタビュー、2015年8月28日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ(URL: www.oralarthistory.org)。
[5] 筆者による糸井貫二氏への聞き取りより(2009年1月1日)。
[6] 加藤好弘オーラル・ヒストリー、細谷修平と黒ダライ児、黒川典是によるインタビュー、2015年8月22日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ(URL: www.oralarthistory.org)。
[7] 『映画評論』1969年5月号、6月号、8月号、9月号。
[8] 「万博粉砕ブラック・フェスティバル」(池袋アートシアター、1969年)
細谷修平
1983年生まれ。美術・メディア研究者、映像作家。ゼロ次元・加藤好弘アーカイヴ代表、HMアーカイヴ代表。大学在学中にイメージ論、編集術を学ぶ。アーティストの活動に関わる聞き取りや調査、記録を通して、アート・ドキュメンテーションを行なっている。主には1960年代の藝術と政治、メディアを研究テーマとして、映像やテキストによる記録を行い、シンポジウムや書籍のプログラムを通した活動を展開。東日本大震災を経て、記録と藝術についての考察と実践を継続している。また、韓国・光州の国立アジア文化殿堂(ASIA CULTURE CENTER)の開館にあたり、特別研究員としてパフォーマンス・アート・アーカイヴの「ゼロ次元コレクション」を担当したほか、写真家の平田実の作品を国内外で紹介している。主な共著に『文藝別冊 澁澤龍彦ふたたび』(河出書房新社、2017年)、『日本のテロ 爆弾の時代60s-70s』(河出書房新社、2017年)、『半島論』(響文社、2018年)などがある。