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Essay: From Environment To Ecology ―流動する風を捉える磯辺行久の試み―

Professor and curator Naoko Seki writes about Yukihisa Isobe and his recent practices.

エンヴァイラメントからエコロジーへ
―流動する風を捉える磯辺行久の試み―

関 直子
早稲田大学教授

半世紀にわたり環境計画家として地域の生態学的な調査に基づく提言を続けてきた磯辺行久(1935-)が、1969年3月に、映像作家のジャッド・ヤルカットと協働した Mixed Media Performance in Isobe’s Floating Theater, Dream Reel by Judd Yalkut は、美術と環境を繋ぐ磯辺の活動の展開過程を理解する上でも注目されるものである。東京での十年に及ぶ画家・版画家としての発表活動を経て、ニューヨークに転居した磯辺は、1967年にはモントリオール万博を訪れ、バックミンスター・フラーによる新しい素材と構造による構築物geodesic domeに関心を寄せ、翌年、ブルックリン美術館で開催されたE.A.T.のSome More Beginnings 展に、おおえまさのりと共同して、空気構造の作品を出品していた。そのわずか4ヶ月後に、ニューヨーク州立大学のキャンパスで行ったDream Reel は、実験的な映像表現を、新たな映写環境で上映すること(expanded cinema)を模索していたヤルカットと協働したものだった。磯辺が構想したのは、パラシュートの複数の紐を床に固定し、下から扇風機の風を送ることで、円蓋状の投射面を生み出すものだった。一方向から平面的なスクリーンを眼差すのではなく、鑑賞者の身体を包み込むような構造は、磯辺にとっても、鑑賞者の体験の重要性を認識させただけではない。平面的な存在である布製の膜が、空気の流れによって円蓋状のかたちを成すことに着目した磯辺は、これをFloating Theaterと名付けたのだ。さらに磯辺はこのパラシュートを屋外に持ち出し、自然の風向きや風量によってその形態を変容させることで、これをFloating Sculptureと命名したのである。この展開は、人工的な室内空間から、外部空間への活動場所の移動を意味するだけではない。肉眼では捉えることの難しい、風の流れを視覚化すること、そして外在的な要因で形態が変化する、新たな彫刻のあり方が提示されたのだ。しかし磯辺にとってさらに重要だったのは、流動し続ける自然環境への気づきが齎されたという点であろう。

この1969年の夏には、アポロ11号の月面着陸のテレビ中継映像を、セントラルパークに設置されたスクリーンに上映する際に、磯辺は熱気球からパラシュート・スカルプチャーを放つイヴェントを行っている。この体験は、パブリック・ビューイングに集まった市民にもまして、磯辺自身が宇宙の中の地球の存在を客観的に捉えていく契機となったことは間違いない。さらに晩夏にかけて磯辺はアヴァンギャルド・フェスティヴァル(ワーズ島)で、チェリストのシャーロット・モーマンと熱気球に乗るイヴェントを行うなど、自らの身体的な体験を通して、大気の流れを捉えることを繰り返し試みている。

磯辺が環境問題に深く関わっていく最も大きな契機となったのは、翌1970年4月22日に全米規模で開催された、第1回目のアース・デーに、ニューヨークのEnvironmental Action Coalition(EAC)のメンバーとして参加したことである。磯辺は、そのロゴ・シンボルマークやポスター(ニューヨーク・パブリック・ライブラリーに収蔵)などのグラフィック・デザインを担当したばかりでなく、車の通行を禁止するためにユニオン・スクエア北側の道路1ブロックに設置された巨大なエア・ドームの設計と制作にあたった。送風機の空気が充たされた内部空間には、歩行者天国となった通りから多くの市民が出入りし、環境問題についての活発な討論が行われた。アース・デーを推進した上院議員ゲイロード・ネルソンは、反戦運動に触発された一方で、幅広い支持層の拡大のため、教育的な側面を重視していたこともあり、アース・デー終了後も、EACは若い世代に向けたニュースレターの発行などを継続していく。一方磯辺は、日本の雑誌『建築文化』の連載企画「あすのアメリカをひらく人々」のインタビュー記事執筆のため、Design with Nature の著者で、アース・デーの理論を指導したペンシルヴェニア大学の地域計画・ランドスケープ・アーキテクチャー学部の教授イアン・マクハーグに面会、秋には同大学院に進学し、麻薬更生施設フェニックス・ハウスの本部があったハート島の環境計画をテーマとする修士論文 Feasibility Study for Development of the `Therapeutic Community‘ を執筆することになる。エコロジーの啓蒙活動ではなく、新たな社会システム構築のための研究とその実践の道を選択したのである。

1973年に帰国後、現在まで磯辺は環境計画家として、関西新空港をはじめとする、地域の生態学的な調査に基づく土地利用の提言を行政に向けて続けてきた。その作業の中心を成す資源目録の作成は、対象とする地域の地図を記したシートごとに、さまざまな生態学的な情報や文化的な資源をかきこみ、それらを重ねて、当該地域にとっての最適な土地利用を提案するものである。つまり、この資源目録は、地域社会の人々と環境との相互的な関係を築くための地域資源のデータベースと言えるものなのだ。

還暦を迎えた1996年から磯辺は、環境計画の仕事と並行して、環境問題を主題とする作品制作と発表を再開した。《不確かな風向き》《エネルギーフロー》《Global Warming》といった作品は流動的な風やエネルギーを矢印などの記号によって示したもので、大型の帆布を支持体とするものである。1997年から2000年にかけてはパリやボルドーのアート・センターに滞在し、フィールドワークに基づく作品を発表している。《脆弱な地域 イル・ド・フランス》はパリ近郊の原発の廃棄物処理施設を25000の一の縮尺の地図に落とし込んだ6m四方の床置きの作品で、対となる《脆弱な地域 東京》と併せ、1998年にパリで発表された。大都市が抱える環境問題を取り上げた作品としてはこのほか、2007年に東京の中心を流れる隅田川に隣接する地域に建つ美術館のガラスの外壁に、過去の台風の際の水位と、将来予想される水害の水位を記号で示した《東京ゼロメートル》がある。地球温暖化や地震などの自然災害によって引き起こされるであろう水の流れを、地域社会に向け、静かに視覚化するものであった。いずれも2011年3月11日の出来事の前に発表されている。

10歳のとき終戦を体験した磯辺は、東京駅前の外堀がまだ水を湛えていたことを記憶に留めながら、焦土の瓦礫によって水路が埋め立てられ自動車の往来する道路へと変貌していく復興期の東京で成長した。日常生活では封印されてきた都市が内包する環境問題を可視化することと並んで、豪雪地帯である越後妻有の「大地の芸術祭」での活動は、この四半世紀の磯辺の活動の根幹を成すものである。この地域を、信濃川によって形成された大地と捉えた磯辺は、大河の変化と地域社会の関係を主題とする作品を三年に一度、発表してきた。いすれも、流域の 大地をカンヴァスとして、大地の形成の歴史と構造、風や水など流動するものを、黄色い旗や文字によって視覚化したものである。初回2000年の《川はどこへ行った》は、JR(旧国鉄)の宮中ダム建設によって、信濃川の流れが変化する前の川筋を、黄色いポールによって視覚化したものである。水田の所有者との長期にわたる話し合いと参加によって実現したプロジェクトの全体像を捉えた写真には、緑色の水田が広がる中に、かつての信濃川の蛇行する川筋が黄色いポールで示されている。そして前景から右手奥にかけて、現在の真っ直ぐに流れる信濃川が捉えられている。 さらに見逃せないのは、水田の上方の丘陵地帯に立ち並ぶいくつもの送電線の存在である。ダムによって発電された電気は、越後妻有から、遠く離れた東京の山手線などの運行のため、首都圏に送られる。エネルギーを送る側の信濃川流域は、季節により川の水量が減少し、生態系が変化している 。この作品においても、ポールと先端の三角 形の小旗は記号的な存在だが、東京からこの土地を訪ね、そこを歩くことによって、都市と豪雪地帯の非対称の関係への考察を深めることができるのだ。この壮大なスケールのインスタレーションでは、現在の川の流れ、かつての川筋を記憶している風の流れ(小旗で示される)、そしてエネルギーの流れを捉えることが意図されていた。 磯辺はその後もコミュニティが圃場を拡大させるため、川の流れを協働して変更する瀬替えや、地震により崩壊した山肌の土砂を利用する砂防ダムの存在など、時と共に忘却されていく、コミュニティと環境との多面的な関係の変化を主題として取り上げている。

これら新潟の芸術祭での大地をカンヴァスとする壮大なスケールの作品はもとより、近年の作品はいずれも、資源目録の作成をその制作の出発点としている。即ち、磯辺の1970年代以降の活動は、環境計画家としての仕事であっても、芸術祭での活動であっても、資源目録という地域の生態学的なデータに基づくものであり、磯辺にとって本質的な違いはほとんど存在しない。資源目録を仮に、交響曲の楽譜、あるいは、コンセプチュアル・アートにおけるインストラクションのような存在として捉えてみるならば、記号で構成される資源目録は、作成者だけでなく、これかも、さまざまな人が、現実の環境において、多様な変奏を展開していくことを磯辺は構想していると言えるのではないか。


関 直子
早稲田大学文学学術院教授。東京都現代美術館学芸員として執筆した同館の展覧会図録に、桂ゆき、オノ・ヨーコ、磯辺行久、菅木志雄の個展、テーマ展として『水辺のモダン』、『東京府美術館の時代』、『百年の編み手たち—流動する日本の近現代美術』、『ドローイングの可能性』のほか、共著に『展示の政治学』(水声社)、『ミュージアムの憂鬱』(水声社)、YOKO ONO: Music of the Mind(Tate Modern)などがある。